今夜、どこで寝る

旅と踊りと酒

吉祥寺駅南口のキャバクラの店長に救われた話

高校を出てロンドンに留学し、ロンドンが寒すぎて日本に帰国した。
20歳の冬だった。
成人式の会場で人生二度目のインフルエンザに感染し、熱に浮かされながらも私はいかにして実家を離れるか、そればかり考えていた。

手持ちの金額は、日本円で5万円ほど。
イギリスの銀行口座にいくらかお金は残っていたけど、日本の口座に送金したりするのには手間も時間もかかる。しばらくは今持っている分でなんとかするしかない。
荷物は少しの着替えと、化粧品、それからPC。
小さなキャリーケース一つに収まった。
地元から東京へ向かう一番安い高速バスへ乗り込む。バス停まで送ってくれた母に「それであんた、いつ帰ってくるの」と言われ、適当にはぐらかした。

東京に着き、しばらくは友人宅に居候させてもらった。
行くアテも、やることも何もなかった。
ただ、上京したら水商売だ、と決めていた。
それが一番手っ取り早く現金収入を得られる手段だと知っていたからだ。
ロンドン滞在時には、現地の駐在員向けのホステスバーでウエイトレスとして働いていた。接客はないが、お客さんに気に入られればちょっとした会話もする。
雰囲気も分かるし、やることも大体は把握している。

事前に「夜のお仕事」専門の求人サイトで、幾つかお店を見繕った。
時給は高いほうがいいけれど、あまりに高級すぎるとついていけないかもしれない。
初心者OK、お酒は無理に飲まなくても大丈夫…そんなところを探していたら、吉祥寺に良さそうなお店を見つけ、電話をし、面接してもらうことになった。
待ち合わせ場所へ向かって飲み屋が立ち並ぶ通りを歩いていると、黒服と思しき人に声をかけられた。
「お店探してないですか?うち今募集してるよ。」
都会で人に声をかけられるのに慣れていなくて、私は正直に、これから別の店に面接に向かうところだと伝えた。
するとその人はその店の場所を教えてくれ、もしよかったらと名刺を手渡してきた。
うちもキャバクラだから、気が向いたら連絡してね、と。


お礼を言い、約束していた店へ向かうと、かなり古いビルの一室にその店はあった。
お店は広く綺麗だったけれど、店長だという人物はお世辞にも感じがいいとは思えなかった。
ちょっとしたことで物や他のスタッフに当り散らし、横柄に給与システムの説明をした。
わずか10分ほど相対しただけでうんざりしてしまい、とりあえず説明を聞いてその場を去ることにした。
はあ、ハズレだったな。求人広告は良さそうな感じだったのに…。
そう思い、トボトボと道を歩きながら、ふとさっき名刺を渡してくれた人のことを思い出した。
ああ、さっきの人は親切だったし、横柄な態度でもなかった。
できるだけ早く仕事をしたいし、連絡したら面接してもらえるだろうか。


名刺に書かれた番号に電話して事情を説明すると、彼は3分ほどで迎えに来てくれた。
案内されたお店は、先ほどのお店の半分ほどの広さだった。
それほど綺麗でもなく、新しくもないが、上品に整えられたお店だった。
椅子に座ることを促され、お茶を出されて、ちょっとした世間話をした。
どうして働こうと思ったの、と聞かれて、面接の一環だと思った私は、今までの経緯から家庭の事情まで全てを打ち明けた。
とりあえず友人のうちにいて、お金もわずかしかないから早く働ければありがたい、と。
そうか、そうか、と一通り話を聞いてくれて、少し考えてから、じゃあ、よかったら今日体験入店をしないか?と言われた。
体験入店とは、1日から数日、試しに働いてみてから本入店するかを女の子と店が双方考える「試用期間」のようなシステム。
通常、お給料は月払いだったり週払いだったり、まとめて支払われるけど、体験入店の際はその日のお給料をそのまま現金でもらえる。
女の子側としては、店と合う合わないを確かめるチャンスで、かつきっちりその日に決まったお金がもらえるというメリットがある。
店側としても女の子の接客態度や、店のカラーにそぐうかどうかを見極めることができる。
願っても無いチャンス、ぜひお願いします、と伝えてその日1日体験入店をすることになった。

化粧を直し、ドレスと靴を借りて、髪をセットしてもらう。
営業前に簡単な「夜のお店のマナー」を教えてもらった。
例えば灰皿を交換するタイミングや、ドリンクの作り方、何かを注文する際の合図のやり方。
大体のことは前のお店と一緒だったし、ドリンクをつくったり灰皿を交換することも慣れている。
20時になり営業が始まって、あっという間にお客さんが入り始めた。
平日でも結構な客入りなんだな、と驚き、あっという間に時間は過ぎていった。
慣れないながらも、その店のお客さんはかなり質が良く、とても優しかったので、何の問題もなく数時間を過ごすことができた。


営業が終わり、スタッフルームへ呼ばれ、その日のお給料をもらった。
どうだった?と聞かれ、楽しかったです、と答えるとそうか、と彼は言った。
この後どうするの?友達の家にもずっとはいられないだろう。
俺は女のところで過ごすから、俺の部屋にしばらく泊まるか?
と、言われ、びっくりしてしまい、いや、それは申し訳ないので、と丁重にお断りした。
君はまだ若いし、一生懸命だから、本気で稼ごうと思えばきっといい線いけるよ。
でも、本当は真っ当なこともできるんだから、考えなさいね、というようなことを言われ、まるで親族のようなことを言うなあ、と思った。
店から出て帰る間際、もうこんなところ来るんじゃないよ、と声をかけて、彼は店の中に戻っていった。

結局その店で働くことはなかったけれど、その後も何度か彼から電話がかかってきた。
ちゃんと飯を食ってるのか、とか、住む場所は見つかったのか、とか。
一度も、うちの店で働かないか、というようなことは言われなかった。
ただ無事に過ごしているかを確認するような連絡が時折来て、それはいつしか途切れたけれど、親にすら、自分が上京し暮らしていこうと思っていることを伝えていなかった身には、なんだか沁みるものがあった。
赤の他人のはずなのに、こんなに心配してくれる人がいるんだな。
世の中捨てたもんじゃないな。
「もうこんなところ来るんじゃないよ」という言葉に反し、私は水商売を続けているし、おかげさまで住むところもあり、ちゃんと飯も食っている。
若い女が、お金もない、住む場所もない、なんのアテもないままに上京してきたことで、もしかしたら騙されてしまうかもしれない、と心配してくれたのかな。と今は思う。
ただ、彼のかけてくれた言葉を時々思い出しながら、私は私が思う「真っ当なこと」をやれているかな、と確認しながら生きている。
おかげさまで、まだ生きてます。あの時、声をかけてくれてありがとう。
心配してくれて、ありがとう。
あの店まだあるのかな?いつか飲みに行きたいな。
おわり。