今夜、どこで寝る

旅と踊りと酒

失恋したら床で寝る

「今夜、どこで寝る」というタイトルのブログを書きはじめて早一年。


旅が好きなので、旅のことを書けたらいいなあという気持ちでこのタイトルにした。
しかし、「どこで寝る」の部分は旅に行く国や街のことではない。
それは旅の隙間、美しい村や見たこともない街へ「移動する間」のことを指したつもりだ。
あるときは夜行バスの座席で、空港の待合室のベンチで、寂れた駅の床に座って眠る。
夜はだいたい、屋根のあるところで布団にくるまって眠れるけど、移動のときはその限りではない。
電車や飛行機を何時間も待たなければいけない時、汚ねえ床にスーパーの袋を敷いて、リュックを枕にして寝ることもザラだ。
ベンチや座席に肘掛けがなければ、めちゃめちゃにラッキーだと思う。
そこはもうベッドでしかない。
寝台列車なんかはホテルに泊まっているのと同じこと。
どこでも眠ることができるのは自分の長所の一つだと思っている。

 
こう思うようになったのは、私の人生で最後に付き合った男性と別れてから。
20代前半の2年半を一緒に過ごした。
もしかしてこの人と結婚するのかな、とすら思っていた。
相手が私と別れたいと思っているのはわかっていた。
わかっていたからこそ、毎日不安で狂いそうだった。
きっかけは宅配寿司の割引券。
それを今日使うか使わないかそんなメールのやり取りをしていて、そっちが決めてよと返したところで
「もうやめよう、美味しく食べれる気がしない」
と返事が来た時にすべてがおしまいになったことを悟った。
初めて心の底から甘えられた相手、そしてそれ故に相手の心に大きな負担をかけていたことはわかっていた。
相手が限界に達していたので取り付くしまもなかった。
ただ、もう終わりです、さようならということだけ。
私もそれに答える以外なかった。
私の自尊心はどん底になり、日常生活もままならないほど打ちひしがれた。
頭でわかっていても心は現実に追いつけないまま、ただ旅に出るということだけを心の支えに出国までの日々を過ごした。

 
彼のいる東京を離れ、どこか遠くへ行かなければと選んだのは、タイの静かなビーチリゾートだった。
日本人はもとより、アジア人も少ない。欧米人の老夫婦かバックパッカーの若者が多い。
さらには雨季であることで、街全体に活気がない。
曇り空で人の少ない、白波ばかりの荒れた海を想像して欲しい。
町並みがどれだけ華やかでも、物悲しい。
私はそのリゾートの「乾季の写真」を見ていくことを決めたのだった。
つまり、一番良い季節の写真。
空はどこまでも晴れわたり海は透き通り、名物である奇岩が海中からそびえ立っている。
小さな島々をめぐるアイランドホッピングや、ロッククライミングが名物だとネットには書かれていた。
東京とはかけ離れた雰囲気、美しい海や岩、島々を巡れば何もかも忘れられるのではないかと思っていた。
期待もむなしく、アイランドホッピングの受付に行くと今日は海が荒れているから船は出せないと言われる。
仕方なしカフェに行きコーヒーを飲み、外を眺めていると滝のような雨が降ってきた。
雷も落ちる。停電になる。もう飲み物が出せないから帰ってくれと言われる。
小雨になる頃に店を出てコテージに戻ると、体長30センチはあるイグアナが玄関に寝そべっていた。しかも、人に慣れていて追い払おうとしても全く動かない。
朝、朝食を摂りにレストランへ行くと、老いも若きもカップルだらけ。手をつなぎながらトーストをかじる若い男女。
一人で来てるのなんて私くらいだった。

 
失敗した、と思った。ここじゃなかった。
愛を語らうカップルや楽しげな家族に囲まれ、自分が孤独であること、フラれたばかりであるということを痛いほど突きつけられた。
海を見ても岩を見ても元彼のことを思い出してしまうし、朝も昼も夜も泣いた。
声が枯れ、頭が痛くなり顔がぱんぱんに腫れるまで。
世の中の何もかもが自分の味方ではないと感じ、荒れた海が自分の心のようだと思った。
ここまで来れば、つまり遠く離れた場所でなんのしがらみもない場所でなら、癒されると思ったのに。

 
救いようのない気持ちの中、それでもなにか楽しみたいと思い市内を散策するツアーに行くことにした。
せっかく来てるんだから、と自分を奮い立たせて。
もう何も考えたくない、全てお任せして色々見て回ろう。
ソンテオという、タイならどこでも見かける小型トラックの荷台に屋根がついた乗り物を、ドライバーごと1日チャーターすることにした。
昔虎を飼っていたというお寺や、ちょっとした市場なんかを回ってもらった。
滞在しているビーチ側のエリアとは少し離れた町中へも行き、タイのごく普通の田舎を見てまわる。
服屋もコンビニもスーパーもあるし、レストランだっていくらでもある。物価も安い。
治安はものすごい良いわけではないけれど、悪いわけでもない。気をつけていれば多分大丈夫。
英語もわりと通じるし、食べ物は美味しい。時々お腹を下すけど。

 

タイの片田舎で、私の孤独や悲しみとは遠く離れて人々は普通に生活している。
ビーチにいる浮かれたカップルや欧米人の家族連れではなく、タイ人のごく普通の人々が道を行き交い食事をしたり買い物をしている。
なんでもない異国の街並みが、妙に私の心を慰めてくれた。
いっとき、フラれたことを忘れられるくらい、「誰かにとっての当たり前の風景」に癒されていった。

 

ただぶらぶらと町並みを散策するのが楽しくなって、私はその日からしばしばソンテオをチャーターするようになった。
行きつけの食堂ができて、ウェイトレスのお姉ちゃんと雑談するのが楽しかった。
インド料理屋のしつこい客引きとも挨拶を交わす。店には入らないけど、毎日前を通ってお互い顔見知りだから。
意味なく市場をぶらついて、お土産を買ってみたりした。
お土産。いったい誰に渡すというのか。
ここへ来ることさえ誰にも告げていなかったのに、カラフルな石鹸や小物入れを買っている自分に驚いた。
仲の良い友人に会いたいと思った。
このろくでもない旅の顛末を話して、ただろくでもないねと言って欲しかった。

 
明くる日、久しぶりに青空が広がり、私はアイランドホッピングとロッククライミングの体験ツアーについに参加できた。
思い描いていた通りのエメラルドグリーンの海。小さな無人島とそびえ立つ奇岩。
同じように一人で来ていたカナダ人の女の子と話しこんだり、世界一周している日本人の男の子とも仲良くなった。
失恋旅行なんだ、と言ったら一緒にはしゃいで遊んでくれて、そのあと話を聞いてくれた。
元彼と友達が被りまくっていたので、周りの誰にも本当のことを話せなかった。
あまりにもプライベートなことが絡んでいたから、彼の名誉と最低限の礼儀だと思って話せずにいたことを、思い切り話したのはこの時が初めてだった。
誰にも気兼ねせず、まだ会いたいと思っていることやどんな風に別れてしまったかを話せることにすごく救われた。


要は「もう好きなんかじゃないし興味ないですよ」みたいなフリをするのも、自分に嘘をついていることになるのですごく嫌だったのです。そういう風に振る舞いたくなかった。まだ好きだったし、気にしていないフリとかもう全然会わないっていうのが、ヤダなと思った。
別れてしまったけど、まだ好きでいてもいいんだ。
すごく大切にしていたものをいきなりゴミ箱に捨てなくてもいいように。
少しずつ忘れたり、新しいことで満たしていけばいい、そんな風に思った。

  

ツアーが終わりソンテオに乗って町からホテルへ戻る途中、ジャングルみたいな森の中の細い道を抜けていく。
薄暗くなってきた森の中に光るところがあるのに気づいて、帰るときはいつもじっと見ていた。
人が暮らしている。森の中の巨岩のふもとに、掘建小屋みたいな家があって、そこに人が座っているのが見える。
工事をしていてたたまたま道端に停車したときに、小屋みたいなところの人たちがバケツからひしゃくで水をくんで飲んでいるのが見えた。
まさか雨水ではあるまい、と思ったけど、ペットボトルの水でもなさそうだ。
タイでは水道の水すら日本人が飲んだらお腹を壊すと言われている。
それでもタイに暮らしていたら、いつかああやって、どこの水でも飲めるようになるのかな。
曇り空のリゾートを楽しいと思えるように、気持ちも体も、順応していくのかな。
田舎の真っ暗な道はとてもこわい、けれどああやってどこにでも人は暮らすし、飲める水もあるし、私が乗っているソンテオはランプが吊るされていて明るい。
自分がいるところは、いつも光っているから大丈夫。

 
暗い場所を抜けて夜でも明るい繁華街のエリアに帰ってきて、コテージで眠った。
エアコンの効きが悪くて、ベッドが暑苦しく感じたので床にシーツを敷いて寝た。
ひんやりした床が気持ちよくてベッドよりずっと寝心地が良い。
豪華なベッドを横目に床に寝ていることがおかしくて、世の中にはこういう寝方もある、と自分に言い聞かせた。
それから何日か、床で寝るのにハマって毎日床で夜を過ごした。
おしゃれなコテージにいるのに、私は一人で、床で寝ている。
他の人から見たら、惨めな旅行かもしれない。
けれど、一人でも笑えて、泣いて、思い出しては苦しくなるけど楽しいと思えることもある。
どん底に落ちてしまっても、小さな救いがどこかにある。それを自分が求めるのなら。

 
今私は明るいカフェの窓際で、すっかり暗くなった秋雨の町並みを眺めている。
あれから何年も経ち、何もかもが変化して、私は今女性とお付き合いしている。
服からは彼女と同じ柔軟剤の匂いがする。
私は、どこででも生きていける。
だから、どこで生きていくか選べる。
この先絶望することがあっても、あのタイの田舎の暗闇の中の光だけ覚えていればそう悲観することもない気がした。
床で眠らなくてはいけないときも、床で眠ることを楽しめるときもある。
私はいつでもペットボトルの水を買えるけれど、いざとなったら雨水を躊躇なくすすりたい。
そしてそれを卑下することも、驕ることもない。
たくさんの選択肢の中から、自分で選んだもので生きて、それを誇れる自分でいたい。
私にとって、それこそが生きることの本質だからだ。
ただ食べて眠れて、起きた時に彼女が隣にいることに、毎日感謝している。

おわり。