読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

今夜、どこで寝る

旅と踊りと酒

あなたとコーヒーが飲みたい

東日本大震災から6年が経ちました。
このニュースを読んで思ったこと、まとまるかどうかわからないけど書いてみます。

www.asahi.com

仙台市に住んでいた同級生は、子どもと、妊娠中だった奥さんが津波に流され、家族の中で自分だけ生き残った。そいつは胸まで海につかって長い棒を使って自分の子どもを捜し出し、口の中が泥だらけなのを洗ってあげて。奥さんは2週間後に2キロくらい離れたところで発見された。その後、同級生は仮設住宅で1人でがんばっていたんですけど、やっぱり耐えられなかったんでしょうね。奥さんを火葬した日の1年後に、「子どもに会いに行ってくる」という遺書を残して自殺しました。

 そいつの気持ちがわかるんです。俺でも、たぶんそうするかもしれない。同級生のことは別にニュースになっていることでもないんですけど、被災地では、そういうことがいっぱいあるんだろうと思います。

 

 こういう話を読んでしまうと本当にたまらなく辛い。
全てが鮮明に蘇ってくる気さえする。

あの日私は東京にいたし津波被害に遭っていない、友人知人、家族に至るまで幸いにも無事だった。
私自身も怪我もせず、今日まで生きている。

それでも、被害という被害を受けていなくても、ただただあの惨状が辛かった。
信じられない気持ちばかりだった。何もできない自分が苦しかった。
無力さと、無念さと、歯痒さでいっぱいだった。
直接的に被災した人、被災しなかった人(と便宜上は書くけれど、あの時日本にいた、もしくは日本国外にいた日本人全てが被災したと言っていいと思う)、それぞれの苦しさや辛さがあったと思う。

死んだ人と会うことはできない、というのは言葉にすると簡単だけれど実感することはなかなか難しい。しかし、ついさっきうたた寝をしていてそれを実感することができた。


短い夢を見た。
私は祖母と一緒に、死んだ父の墓を探しに、父の故郷の山の中を歩き回っていた。蝉が鳴いていて首筋にじっとり汗をかいている。
祖母は鉈を持って藪の中をどんどん進んでいき、時折姿が見えなくなる。老人にしては足が速すぎる。元気が有り余っていて困るくらいだ。
私は父と父方の祖父母に絶縁されているため、告別式にすらこっそり出席したし、墓の場所なんて知る由もなかった。なので、父の実家の近所の寺や神社を訪ね歩き、おおよそのあたりをつけてその山の中を探そう、ということになったのだった。


母には言いづらかったので、そういう時は物分かりの良い祖母の方がいいだろうと思いついてきてもらった。
小一時間も山の中を歩いていると、それらしき墓がちらほら見受けられるようになった。おそらく親類縁者の土地にまとめて墓を建てているのだろう。
しかし、まとめてとはいうものの、山の中で土地が有り余っているために、墓と墓が絶妙に距離を取っていて一つ一つ調べるのはかなり骨が折れた。しかも、親類なのでみんな同じ苗字。ちゃんと近づいてみないと誰の墓かわからない。
父は若くして亡くなったので祖父母が健在で、さらに離婚していて独身なので新しく父だけが入る墓を建てることになる、という話を聞いていた。なので、真新しい墓石があればそれが怪しいだろうと祖母と二人で話していた。


水筒に入れてきた冷たい麦茶を飲み干し、手で額の汗をぬぐいながら歩いていると、ようやくそれらしき墓石を見つけた。名前を確認する。父の墓だった。
萎びかけていたが花も供えられていた。供物を置き、吸ってたかわかんないけど煙草に火をつけて線香入れに置いた。私は煙草を吸わないので、口にくわえて火をつけるのが下手だ。煙にむせて涙ぐんでしまった。
何分間かそこで手を合わせた。長ズボンを履いてきたのに何箇所も蚊に刺されている。山の蚊は強いしものすごく腫れるので本当に嫌だ。
山を降りて、車を停めた場所まで歩いていると、一台の車がこちらに向かってゆっくりと走ってくるのが見えた。それを見た祖母が突然ものすごい勢いで反対方向へ走り出し、角を曲がって身を潜めたので急いで着いて行った。
「何なの?!急に走ったりして。」と言うと祖母は「あれはあんたの父親の父親、つまりじい様の車だよ。見つかったらまずいと思って。」と言った。
なーんだそういうこと、びっくりさせないでよ、と軽口を叩きながら、私たちは再び車に向かった。


車に向かっている途中、急に違和感を感じた。
なぜ祖母は走っているのだろう?つまり、なぜ祖母は走れるのだろう?
去年病気をしてから、杖をついて歩くのがやっとなのに。
そうか、これは夢なんだ。と気づいて、現実と夢が混じり合っていくのを感じた。
私は夢の中でさえも父の墓を探している。夢の中でも彼はもう、死んでいる。
人生で一度しかまともに対面したことがないから、彼は私の夢の中にさえ、出てくることはないんだな。
そう思いながら目を覚ました。

墓を探したくだりは丸々全て事実なので、夢というよりは記憶を再生したにすぎない。
あれから数年、父は死んだまま、私は彼女と別れ、祖母は病気になって歩くこともままならなくなった。何もかもが変わり、時が進んでいく。死んだ父にはまだ会えていない。

今私はバルセロナにいる。午前中、ポールダンスのレッスンを受けに行った。
バルセロナに知り合いは一人もいないため、一人で受けに行ったレッスンだったけど、先生も生徒もとても親切にしてくれてすぐに打ち解けた。
レッスンが終わり、特に声をかけてくれたキューバ人の男の子と話していたら、お茶をしに行こうと言われた。もう一人ロシア人の女の子もクラスに残っていたので、その子も誘って近くのバルでコーヒーを飲んだ。
ポールダンスという共通点があるので、話がはずむ。同じ苦労や喜びを味わっているもの同士、世界中どこに行っても「ポールダンサーあるある」が通じるなあ、などと思いながら楽しい時間を過ごした。
一杯のコーヒーを飲み終わるまでの短い時間だったけれど、私たちはまた次のレッスンも一緒に受けよう、次は終わった後飲みに行こう、と約束をしそれぞれ帰路に着いた。

 

ポールダンスのレッスンを受けて、コーヒーを飲み、家に帰り、うたた寝をし、短い夢を見て今日という1日が平穏無事に終わっていく。
あの日からもう6年が経ち、私は私のやりたいことをやるために、人生を喜びで溢れさせるべく生を謳歌している。
楽しいことばかりです、と言いたいところだけれど、一番の後悔は父が死ぬまえに和解できなかったことだ。


時を戻せるのなら、父とコーヒーを飲みに行きたい。
初めてまともにあった日、19歳のあの日も私は大人ぶってデニーズでコーヒーを注文した。そのあと、なんでも頼んでいいよ、と言われてパフェも頼んだ。
19歳の私はコーヒーはおろかカフェラテすら普段飲むことはなく、その時のコーヒーはただ苦くて酸っぱい黒い汁だった。美味しいなんて全然思えなかった。
父はお代わりもしていたから、少なくともコーヒーを飲める人なんだろう。
そんなことすら私は知らない。


あれからもう10年近く経って、私はコーヒーが飲めるようになった。
ブラックでは飲まないけれど、カフェラテは好きだ。バルセロナのコーヒーはどこも美味しい。
ここに来てくれないかなあ、美味しいコーヒーがいつでも飲めるのに。
その辺の適当なバルかカフェに座って、3月のバルセロナの太陽を浴びながら、父とコーヒーを飲んでどうでもいい話がしたい。仲直りがしたい。もう一度会いたい。墓なんか探しに行きたくない。
クソ野郎、こんなに早く死にやがって、と焼香台の前で散々悪態もついてやったけど、聞こえてすらいないんだと思うと腹立たしい。

 

いつの日か私が死んで、もしその行き先に父がいてもう一度会えることがあるのなら、一発殴ってそのあと一緒にコーヒーを飲む。
そしてこれまでの文句と、恨みと、愚痴とワガママと愛を一緒くたにして伝えたい。
おわり。

 

追伸
異国にいると、日本のニュースも見ないし、今日が311だということを共有できる人がいなくて結構寂しいものです。
外に出てみたら愛が深まるとよく言うけれど、今日は本当にとてもセンチメンタルな気持ちです。
存外自分の国のこと大好きだったんだなって気付きました。