今夜、どこで寝る

旅と踊りと酒

欠けていることは最強の武器/「ここは、おしまいの地」感想

爪切男さんの「死にたい夜にかぎって」とこだまさんの「ここは、おしまいの地」が同日に発売されてしまい、迷った末に爪さんの本を先にカフェで読んだ。そして明くる日の今日、いつもモーニングを食べに来る喫茶店でこだまさんの本を読み終わった。

 

ここは、おしまいの地

ここは、おしまいの地

 

 

この順番で、この場所で読むのが正しかったんだと思った。
この喫茶店は、平日こそ空いているが土曜の午前中はそれなりに混む。休日に家族や友人と連れ立ってモーニングを食べに来る人がいるからなのだけれど、そのほとんどは老人だ。こだまさんがブログで綴っていた、クセの強い老人たちを思い起こさせる。ハガさんが特にいい。トイレに行かずに部屋の簡易便器で日に何度も大便をする老女。奇しくも私がいつも座る席は、トイレがとても近い。

こだまさんは以前よりブログを読んでいて、深刻な状況のはずなのに軽快な文章を書く人だな、という印象だった。淡々と展開していく作風がツボにはまる。
前作「夫のちんぽが入らない」は、ブログの文体はそのままに、読む人に様々な気持ちを思い起こさせる素晴らしい作品だ。重苦しく辛い場面もあるけれど、それすらもすっと胸に入ってくる。思わず感想文も書いた。

www.dokodeneru.com

「ここは、おしまいの地」で特に好きなのは、こだまさんが何度も「書くこと」について言及しているところ。

声に出して心のうちを明かすことが苦手な私にとって、書くことだけが放出する手段だった。

この一文や、「何もないことをさらけ出していけばいい」というあとがきに、深く共感した。「欠けていることが私の装備だと気がついた」というところでは、あなたは私か?と思った。クソみたいでも、次々不幸が降りかかっても、ネタになることが多い人生ならば、捨てたもんじゃないと私も思っていたからだ。

 

二十代前半の時、都立家政に住んでいる占い師の家を訪ねた。大層当たるがきつめの物言いだから、心していくようにと紹介者に言われていた。水商売をして物書き志望、文章を書く仕事をするアテもまだなかった。この暗闇から抜け出せるなら多少毒舌でも構わない、ほんの少しでも道を照らしてほしいと思った。
占い師のおばちゃんはとてもメイクが濃く、手首に蝶のタトゥーを入れていて、超高速で紙に何かを書き始めた。御筆先というスタイルだそうで、その人に必要な文章や単語が勝手に書かれていくらしい。


「あんたはまだまだ長い文章を書きなれていない、とにかく書きまくれ、あんたの人生に起きたことはすべてネタだと思え。なんでもやれ。やったことを書け。会った人のことを書け。すべて後に書くネタにつながると思って日々を過ごせ。」


要約するとおばちゃんはこのようなことを言った。今、おばちゃんの言ったことを思い出しながら書いてみたが、全くもって当たっている。長い文章を書きなれていなかったし、私の人生に起きたことはすべてネタだった。そして、それを書き続けたことでどうにかこの世に芽吹き始めている。春は近い。花も咲くだろう。降った雨が地面に染み込みやがて地下を通って海に戻り、また雲にあって雨となる。
しょうもない出来事があったらひとしきりおちこんだ後ブログに書く。


すべてはつながっている。
クソみたいな家庭に生まれたことも、失恋しては旅行しまくったことも、何を間違ったポールダンサーになったこと、会社を辞めたこと、レズであること。
すべてがネタである。


私は自分を恥じて生きてきた。今でこそ誇れることも多いが、まっとうな人生ではないと思っていた。レールを外れ、人が当たり前にできていることができない。組織に馴染めず、自分一人で動けるようなことしか上手く行えない。恋人をめちゃめちゃに傷つけたり、自分が些細なことで傷つきまくったり、それを癒すために数ヶ月も海外に逃げてしまう。逃げることでしか自分を守れない。
大事なものは失うのが怖いから自分からぐちゃぐちゃにぶっ壊す。
精神が破綻しているとしか思えない。


それもこれも変な幼少時代を送ったせいだ。私のせいじゃない。私のせい。自分のせい。自分がいけない。恥ずかしい。
そんな風に自分を罰していたのに、文章を書き続けたことで、そしてそれがたくさんの人に届いて暖かい言葉をもらえたおかげで救われた。救われてしまった。
こんな人生も悪くないなと思えた。なんでもネタになる。書きたいことがたくさんある。訴えられない程度にやっていきたい。

成功したら、それはそれで幸せ。
転落しても、その体験を書けばいい。
そう思えるようになってから、ずいぶん生きやすくなった。

あとがきでこだまさんはこう書いている。真理だ。物書きの真理。息を吸って吐くように、まばたきや排泄をするように文章を書いてしまう人種の真理。書いて、書いて、もう書くことがないかもしれないと思ってもまだまだ、先は長い。過去は遠い。引き出しの奥に引っかかったぐちゃぐちゃの記憶を丁寧に引き伸ばして、読んでもらえる形にする。

こだまさんがきっとこれからも書くことをやめず、呼吸と同じくらいのペースでこれまでの人生を綴ってくれるだろうことがとてつもなく嬉しい。死ぬまで書き続けて欲しい。肩を並べるのはおこがましいけれど、同じ真理を知るものとして、ずっとこだまさんの文章を読んでいたい。

おわり。

振り返ることを許せる女の優しさ/「死にたい夜にかぎって」感想

爪切男さんの「死にたい夜にかぎって」とこだまさんの「ここは、おしまいの地」を書店で予約して購入した。Amazonの方が早く来るかもしれないと思いつつも、近くの書店に「この本はめちゃ面白いんですよ、需要があるんですよ、絶対に入荷したほうがいいですよ」と知らしめたく、十数年ぶりに書店で本を予約した。最近では電子書籍ばかり購入し、雑誌を物色するくらいしか用のなかった書店が、大好きな人たちの活躍をほんの少しでも後押しすることのできるボーナスステージのように思えた。

 

書店に併設されたカフェでコーヒーを頼み、「ここは、おしまいの地」と「死にたい夜に限って」を二冊机の上に並べた。さて、一体どっちから読んだものか。どちらも事前に試し読みをしていて、めちゃめちゃに面白いのはわかっている。選べない。目を瞑ってトランプのようにシャッフルし、上にあった方を読もうか。両手で本を持ちいざシャッフルせんとしたその時、店内に流れているBGMに気がついた。
Here we are face to face
With the memories that can't be erased
私たちは今、向かい合っている、消すことのできない思い出と一緒に。
Before you walk out of my life、直訳すると「あなたが私の人生から出て行ってしまう前に」というタイトルのその曲を私は何度も聞いたことがあった。数年前に付き合った人と別れた時に。
読む本は決まったな、と思った。

 

 

死にたい夜にかぎって

死にたい夜にかぎって

 

 

 

「死にたい夜に限って」の本文は筆者と「アスカ」の別れ話から始まる。6年間の同棲、私の筆力ではあらすじなど到底記せないので省略するが、とにかく筆者は突然別れを告げられる。余震の続く中、揺れるアパート、別れを決意した女の強さ。いや、それは優しさなのかもしれない。優しさなのだと思う。
作中に好きなエピソードはありすぎて、特に車椅子の女性との初体験、アサリを飼う話、アスカがダイエットのために踊る話など、こうして書き連ねているだけで泣いたり笑ったりしてしまいそうなくらい良いのだけれど、何より良いなと思ったのは作中を通して描かれるアスカのあっけらかんとした態度だ。実際にはむちゃくちゃ大変だったんだろうけど。それをおかしみや情を感じさせる文章に落とし込める爪さんのあまりの筆力に筆を折りそうになった。折らない。折らないぞ。
あとがきで爪さんはアスカに、プライベートな内容もあるこの本を出してもいいかと言い、アスカはそれを承諾する。あっさりと。胸の内にはいろいろあるのかもしれないけれど、さっぱりと。


6年という時間を共に過ごした相手が人生を振り返り、自分との関係も含めた柔らかい部分を惜しげもなく書き連ねた文章を世に放つと言われた時、そうやすやすと承諾できるだろうか?
私は承諾してもらえなかった側だ。訴えると言われた。というか、アスカが奇特なのであり、承諾してもらえることの方が珍しいのではないかと思う。
過去に付き合った人とのエピソードを書いた。もちろん、誰かわかるような情報は一切載せていないし、悪口も書いていないつもりだ。私にはそのつもりでも、相手にとってはとんでもない罵倒であったのかもしれない。意見の不一致。方向性の違いで解散した相手なので仕方ないけれど、アスカの優しさを見習えと言いたい。だが言えない。言う度胸もないヘタレだから。面と向き合う勇気がないまま別れてしまったから。この本を家に送りつけてやりたい。だけど送れない。送る資格が私にはない。十回は読んでほしい。しかしそんな義務は相手にはない。物書きと付き合ったのが運の尽き、腹が立つなら訴えるのではなく、同じ筆の力で殴ってほしいと一瞬思ったけれどそれはとんでもない思い上がりだ。セックスの時の変な癖とかを公開されても仕方あるまい。なぜならそのように言われたり書かれてしまうのは、私が全く相手に優しくなかったからなので。自分の行った結果でしかない。愛していたけど、優しくできなかった。それが事実です。


アスカの優しさは、爪さんがアスカに与えてきた愛そのものなのだと思う。優しくしたから、優しくされる。優しい気持ち。首を絞められたり浮気をしたり、浮気されたり、散々なことが目立つけれど、それをお互い許したり甘えたりして過ごした期間の末、この素晴らしい本はこの世に爆誕した。最高の時間の無駄遣い。
最後にアスカが爪さんに送った手紙の文面を、心底羨ましく思った。短く簡潔で、突き刺さる。アスカも文章書けそうだな。こんな手紙をもらったら、泣きながら全て許してしまうし、辛くてもちゃんと次に向かっていくための気力をもらえる気がする。陳腐なことばかり書いてしまうけど、最高のラブレターとその返事を読ませていただいた気分。

私は残念ながら振り返ることを許してもらうどころか、そもそも許可をもらいに行ってすらいない。会いに行って話したら、許してくれただろうか?私は、優しくなかったと思うし、それがただ返ってきただけなのだと思う。優しさは優しさを、愛は愛を生む。
人生から出て行ってしまった相手だからこそ書けることもあるのだと思う。別れた後しか書けない手紙がこの世にはある。
今後も懲りずにそういうラブレターを、今まで付き合った相手に向けて書いていこうと思えた。
優しい気持ちで生きていきたい。
おわり。

世間の想像の範囲外に行くと生きるのが超ラク

人は自分の想像の範囲内にあるものだったら批判したりこきおろしたり好き勝手言えるけど、宇宙の外の更に向こうについては何も語れない。
だから世間の想像の範囲外に行ってしまうと、生きるのが超ラクなのである。

 

私はぱっと見ごく普通の見た目をしている。髪を派手な色に染めたりピアスがたくさん空いてるわけでもタトゥーを入れまくってるわけでもない。だから、見た目から何をしているか想像できないと思われる。
そんな見てくれなのでその辺で知らんおばちゃんとかに話しかけられることが多々あり、5分ありきたりな話をする。
いい天気ですね、明日は寒いかな、今週末はどうでしょうね。
しかし5分以上話すことはできるだけ避けている。
なぜなら時間が経てば経つほど相手はプライベートなことを私に聞き、だんだんと(自分の)様子がおかしくなってしまうからだ。
お仕事は、恋人は、ご家族は、と聞かれた時に全て嘘をつくべきか、正直に答えようかとても迷う。
ポールダンスをしていて、女性のパートナーがいます、一家離散寸前で、実の父は2年前に酒の飲み過ぎで突然死しました。
驚かれたりただうなづかれたり反応は様々だけど、いわゆる一般的なめんどくさい質問が一切飛んでこなくなるのは正直に答えることの利点だなあと思う。

女、アラサー、という属性がついただけで「結婚」「子供」「(場合によっては)家の購入」「将来の見通し」などを当たり前のように聞いてくる人との距離感がわからない。
結婚は日本の法律上まだできない、子供は奇跡が起きない限り愛する人との間には望めない、家買いたいとか思わない、将来なんてどうなってるか全くわからない。
全てを明かした上で一つ一つ丁寧に答えようかと思うときもあるけれど、全てを明かした時点で大概なんにも聞かれなくなる。
その人の中にある「女、アラサーとはかくあるべき」みたいな型にハメられなくなるので非常にラクである。許された感すらある。
何でもやっていい人だと思われたい。何をしていても私らしいと思ってもらいたい。

世間の想像の範囲外で生きてきて、おそらくこれからもそうだろう私には「こうあるべき」「こうなるだろう」というようなロールモデルがない。逆にあるなら聞いてみたい。
そういうものがなくてよかったな〜と心の底から思う。自分で好き勝手にやっていける。女だから、○歳だから、家族がいるから、とかいろんな理由で何かを強いてくる人がいないのは最高。
あまりにもそういった目安がなさすぎて20代前半は戸惑いしかなかったけれど、今となっては途方も無いくらいでかい白い紙に好き放題なんでも書いていいよ、と言われているようで清々しい。
右上にポエムを書いて左下にコラージュ作品を作り、真ん中には一番良く撮れている自撮りを貼って、全体的にラメパウダーでも振りたい。


好きなことをやり散らかして、壮大な作品を作り上げてから死にたい。
自分満足度ナンバーワンの人生を送る。
その副産物で他の人が喜んでくれたら、それはしらすに小さな蟹が入っているみたいに嬉しい。
おわり。

 

 

fly me to the Mars

火星は地球よりはるかに発達した星だ。
地球でつくられたテクノロジーは火星に移住した人々の手でより高度なものに進化した。

それによって火星への移住希望者は後を絶たなくなり、今では観光さえかなり厳しく制限されている。
宝くじほどではないが、火星行のチケットは抽選でなければ買えない。
もしくはガイドツアーに高いお金を払うかだ。

地球での平凡な暮らしも楽しいが、私は宇宙への夢を諦めきれずにいた。
若いころに、火星へ移住する人々を、平面のテレビで見送った日を思い出さないことはない。
月日は流れ、高性能で衰えることのない機械の体や脳から直接ネットにつながる術を手に入れた。
快感さえ自分で操れるのだ。退屈することはないだろう。そうおもっていた。
しかし、火星への憧れは強くなり続け、私はチケットの抽選に申し込むことにした。三か月前のことだ。
抽選には数カ月を要し、当選した場合にのみ電子チケットが届く手はずになっていた。
ある朝、一週間後に地球を経つ電子チケットが当選したという知らせが届いた。
高倍率をくぐりぬけ抽選に当たったのだ。
一人分の電子チケット。往復だが復路の日付は一年後を示していた。

「一年後・・・。」
呟いてみても実感は湧かなかった。スクロールするとこのような文面があった。

「おめでとうございます。あなたは特別なチケットに当選しました。
火星で一年間生活できる権利です。衣食住も保障します。火星の生活を満喫できるレジャープログラムもご用意します。
出発前日までに可否をご連絡ください。尚、チケットの日付変更は出来ません。」

とてつもないチャンスを得たのだとわかった。
それと同時に一年も地球を離れることができるのかという不安が襲ってきた。
家族や恋人と一年も会わずに暮らせるのか。
わたしがいない一年の間に、どれくらいのことが変わり、なくなり、また新しく生まれるのだろう。
日々老いていく母。季節ごとに葉を散らす観葉植物。夏の暑い日差し。
手をつないで歩く恋人の家までの長い道のり。
すべてがまだ旅立ってもいないのに走馬灯のようになってあたまのなかをめぐる。
一歩歩きだすことは、足を踏み出す前に持っているものをすべて後ろに投げ捨ててしまうことなのだろうか。

ねえ一年だよ、一年も離れていたらどうなっちゃうの。なにもかもなくなるの。
不安なこころを打ち明けると、笑って答える。
「スーツケースにいれて連れて行ってよ。」
そうか、その手があったか。
できるだけ大きいスーツケースを買おう。暖かいように、毛布を敷きつめて。
食料も水もありったけいれよう。
幸いにも火星まではワープ通路を通るため二時間ほどで到着する。
二時間くらいならスーツケースの中でもどうにかなるだろう。
火星で楽しく暮らそう。地球にもどるころには、火星語がぺらぺらになっているよ。火星料理も作れるようになるよ。
そう悲観したものじゃない。たのしいことだけ考えていよう。
震える手と手を握り合わせて、これ以上隙間がないくらい体をくっつけた。
火星にも暖かさはあるのだろうか。このぬくもり以上の、暖かさが。

2018年だし秘密の庭の話をしよう

年が明けて1週間も経ってしまった〜
寝てるのか起きてるのか、夢を見ているような正月でした。

 

さてこの記事がとっても良かったので読んでほしい。

note.mu

あなたの心に秘密の庭はありますか?

それはつまり、誰にも決してベラベラ喋ったりしないけど密やかに愛しているもの、心底大切にして慈しんで飾りがたくさんついた箱にしまいこんでいるもの、言葉に出したら壊れてしまいそうなくらい繊細な思い出の景色、夢で見た不思議な建物、もうどこにあるのか思いだせない現実にあるはずの場所、ふとした瞬間に思い出すメロディなどなどを詰め込んだ場所のことです。
そういう庭を心に持ち、必要とあらば少しだけその中の物事を誰かに明け渡す。
1時間台本なしに語れることが自分の心の中にあるか常に自身に問いかける。

 

自分が思う美しさを大切に守れたら、他人になんと思われようと、どうでもいいなと今は思える。
私の踊りにも私にしかわからないテーマがいつも隠れている。
誰に理解されずとも庭をいつまでも守らなければいけない。
庭の番人はあなたしかいない・庭の手入れをするのもあなたしかいない。

 

今年もより美しく素敵なお庭をつくるぞー!
おわり。

12/31 雑記「子供好き?」って質問は子供に失礼

盆暮れ正月と言いますが、テレビがないので本当に大晦日の実感がない。
ラジオでもつけてみようかなあ。
今夜はパートナーと鍋をつつきます。

 

・「子供好き?」って質問は子供に失礼
「子供好き?」って聞く人はおそらく、子供と楽しく遊べるかとか、子供を育てることを想定して生きてるかとかそういうことを聞きたいのではないかと思う。
でも子供好き?ってそんな十羽一絡げに聞かれてもわかんねえよ〜って感じ。
子供と遊ぶのは楽しい、彼らは基本的に素直であるし、大人ほど嘘もつかない。
だけどもちろん気の合う子もいれば気の合わない子もいる。
そこに年齢は関係がないと思う。向こうにも選ぶ権利がある。
大人が一方的に「子供好き〜」って寄っていったところで、子供の方が遊びたくなければ遊ばないでしょうし、逆もまた然り。
つまり、子供も大人も、気が合えば好きだしそうじゃなきゃ好きじゃない。
ざっくり言うならば「人による」。
なんで大人には「大人好き?」なんて聞かないのに子供はひとまとめにされちゃうんだろう?超不思議。
子供には意志がないとでも思ってんのかな。

 

・続けた人が最後に笑う
これはいつもいつでも思っているけど、下手でも笑われても人より上手じゃないと自分で思っていても、とにかく続けることが最終的に勝ちなのではないかと思った。
どんなに上手でも、素敵でも、やめてしまったらそれで終わり。
たとえ100パーセントの満足ができなくても私は書き続けるし踊るのもやめない。
それは書くことと踊ることがただ好きで、人からどう思われようとただそれがしたいとからだ。
もちろん褒められるのは嬉しいし、反応してもらえた方がいいに決まっている。モチベーションになる。
いつもコメントやsarahah送ってくれる人、本当にありがとうございます。
だけどたとえ世界に自分しかいなくなったとしても、書くのと踊るのをやめることはないと思う。
世界に一人だけの自分と、その向こう側にいる誰かに向けて2018年もたくさん書くし踊る。

 

・自分の倉庫を整理する
まだまだ案外、自分では価値がないと思ってたのに人からは評価されるものが倉庫に眠っていることに最近気がついた。
来年はそういうものをきちんと棚卸しして埃を落として、お店に綺麗に並べてみようとと思う。

・淡々と日々を過ごしながら持っている刃物を研いでいきたい

 

それでは、良いお年を!
来年もよろしくね。
おわり。

12/29雑記 好きなことだけしていたい

12/29か〜
毎年毎年思うけど、年の瀬って感じがしない。
逆に「わあ年の瀬!」って思った時なんてあったのか。


2017年は本当に怒涛の一年という言葉がぴったりな年でした。
2016年末にブログ始めて、2017年2〜4月は世界一周。
彼女と出会って、8月からまたスペインへ行き、帰国して婚約。
年末で仕事を辞めて今に至る。
要素がてんこ盛り過ぎて訳がわからない。
今年って何してたのかな〜。
iPhoneのカメラロール見てもいろんなところにいすぎてもう、思い出がいっぱい。

 

「嫌なこと」を徹底的に削ぎ落とした一年だったように思う。
寒いところが嫌だから暖かい国へ行ったり、団体行動ができないから一人でふらふら旅行したり。
嘘をつきたくないから仕事を辞めたし、離れていたくないから一緒に暮らす。
裏を返せば「好きを追求」した年だった。

 

「好きなことだけ」で暮らせるとか暮らせないとか色々本が出てますね。
自分の好きと嫌いをより分けていった先にそれはあるんじゃないかなあと思う。
「好きなことだけして生きていく」生活。

仕事は好きだけど組織の中にいると浮いちゃって居心地が悪いしやっぱり自営業が向いてる、婚約者がいることを隠さなきゃいけない場所へは行かない、嫌いな人とは話さないし必要があれば嫌いだとちゃんと言う、愛想笑いやおべっかを言わない、腹がたつことをされたらその場でちゃんと怒って腹が立ってることをあらわにする、心が静かに保てることをする、会いたい人に会う、話したい人と話す、好きな人の笑顔を毎日見たい、できたてのご飯を二人で食べたい、たくさん文章を書く、踊る、映画をもっとたくさん見る、
自分が何を欲しくて、本当は何が必要ないかちゃんと知っておく。

今の私はパートナーがいないと楽しくないし、前ほど旅行に行きたい気持ちも薄れた、ポールダンスはずっと続けたい、もっとたくさん文章を書きたい、静かな場所で誰にも邪魔されずに創作したい、体鍛えたい、もっと柔軟性欲しい、会いたい人に会いに行きたい、
だからそのために心身ともに健康でいる。

 

2018年どうなるのかな〜
何もわからないから、楽しみ。
おわり。